「こどもにね、私がいなくなった後もこの池だけは残して、大切にしなさいって言ってるんよ」
そう言って眺めるばあちゃん自慢の庭と池には、
池の広さには不釣り合いなほど小さい鯉が3匹、
初夏の日差しを浴びて元気に泳ぎ回っている。
ばあちゃんは認知症があり、独りで生活するのは難しいと言われていた。
それでも家で生活をし続けたい、ここで暮らしたいとばあちゃんの強い希望があり、
娘さんの強力なサポートとnetto(ねっと)の介入で
なんとか自宅で生活をすることが実現してもうすぐ4年が経過しようとしている。
「私がいなくなった後も…」
という言葉に、ばあちゃんらしさを感じたし、
netto(ねっと)はそこを支えたいと強く強く感じたのだが、
普通に考えたら、ばあちゃんがその家からいなくなったらnetto(ねっと)の訪問は終了する、
それでも支えたいと感じたのはなぜだろう?と、
きっとこれは重要なポイントだと直感したので、
その気持ちの変化を言語化してみようと思った。
大切なことは、 ばあちゃんにとっては自宅と庭と池と、自分自身が切り離された存在ではないということだ。
持続的な「私」を支えている基盤が自宅であり池であると言えるのではないだろうか。
場所という概念は特に西洋圏で希薄だと西田幾多郎は指摘しました。
「場所の倫理」は彼の思想の確信をなすものであり、
西洋哲学が「ここのものが存在する」ことを出発点とするのに対し、
東洋思想は「すべてを包み込む無の場所」を重視しすると考えていました。
つまり、「もの」が個別にあるのではなく、すべてが「場」の中から生じ、
その「場」に還っていくという捉え方をするのです。
自分自身よりも根源的で持続的な「場所」が存在することで、
自分がこの世からいなくなっても絶対的な終わりではないという安心感があると思いますし、
孤立感を感じにくいのかもしれません。
そして生と死が対立するものではなく、連続するただの「現象」であるとも捉えられると思います。
いかにも仏教的な「空」の思想に近いでしょうか。
これからも続いていく、というのは死を前にしてなお希望をいだかせてくれるかのような、要素のひとつになり得るのではないかと思います。
ではそれらを踏まえたうえで、高齢者の介護環境はいかにあるべきか?先進的な介護事業所の活躍に思いを馳せてみました。
在宅であれ、施設介護であれ、精神的な安心感と存在の連続性を育む「場」という概念を組み込むことはとても大切なことであると思います。
頭に浮かんだのは近年、注目されている多世代交流や役割も持ってもらう、という取り組みです。
多世代交流の機会を設けることは、自分の人生が社会の連続性の中に位置づけられていることを感じられる機会になっていると思いますし、高齢者自身が何か役割を持ったり、他者に貢献できる機会を作ることは理由があって在籍することになった場(施設)との繋がりを強くし、その場に新しく意味付けする機会になるとも言えるでしょう。
在宅においては、その場所が持つ歴史とともに暮らしているという感覚を感じやすい環境です。
自分が生まれ育った、あるいは家族とともに長い年月を過ごした「場」である自宅においては、壁の傷、庭の木、使い込んだ家具、どれもが過去の出来事や感情と結びついています。これらの「もの」は、個々の記憶を呼び覚ますだけでなく、自分が生きてきた道のり、つまり自己の連続性を実感させてくれます。
そしてその場所で人生の終末期を迎えることは、死を大いなる循環の一部として受け入れる気持ちの整理をするうえで大きな助けになってくれると言えそうです。
在宅で暮らすことそのものが、自己の連続性を実感し、安心感を享受できると考えられる一方、外部との接触が減少したり、環境自体の安全性という意味では行動を制限してしまうこともあるかと思います。それにより逆に社会的な孤立のリスクも抱えているかもしれないのでその点については常に考慮する必要性がありそうです。
とはいえnetto(ねっと)で在宅支援をするという意味についても、この記事を書きながら少しクリアになってきたように思います。
ただ自宅で暮らすことができれば良いというわけではなく、それが「場所の倫理」の観点から安心感を感じ、孤立感が少なくなる可能性がある。そして長年暮らしてきた場所に還っていくという意識を持ってもらうことで、歴史の中の自分、連続した生の中の自分を実感してもらうことは、人生の集大成を迎える方々にとっての救いであり喜びそのものになる可能性があります。
それらを意識したうえで、その気持ちをより感じてもらえるような関わり、
例えば池をきれいに整えるとか、一緒に池を眺めて来歴に想いを馳せるとか、
そういったことの積み重ねの上に「よかったね」と一緒に喜ぶことができる、素敵な未来が待っているような気がするのです。
きっとばあちゃんがいなくなったあとも、
庭の池は水を湛え、
生き物を育み、
連続した生と死を見つめ続けていく場であり続けていくことと思います。
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